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ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯) : ミニ英和和英辞書
ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯)[こう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [はつ]
  1. (n,adj-no,n-suf) first 2. new 
初代 : [しょだい]
 【名詞】 1. first generation 2. founder 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [こう]
  1. (n,n-suf) marquis 2. lord 3. daimyo 

ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯) : ウィキペディア日本語版
ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯)[こう]

ジョージ・サヴィルGeorge Saville, 1st Marquis of Halifax, 1633年11月11日 - 1695年4月5日)は、イングランドの政治家。初代ハリファックス侯爵。1682年から1685年1689年から1690年の2度に渡り王璽尚書国璽尚書)の地位にあった。
== 生涯 ==
準男爵サー・ウィリアム・サヴィルと大法官トマス・コヴェントリー男爵の娘アンの息子として生まれた。父は清教徒革命王党派に属して戦死、ジョージは父の爵位を受け継ぎ、1656年にサンダーランド伯ヘンリー・スペンサーの娘ドロシーと結婚したが、イングランド共和国政権では逼塞していた。
1660年王政復古の国民協議会の下院議員に選出され、1668年にハリファックス子爵となり上院へ移った。同年にオランダスウェーデンとの三国同盟締結の調整を行い、1672年枢密顧問官に任命され政権の一員となった。同年にウィリアム・ピエールポントの娘ガートルードと再婚、オランダ侵略戦争フランスに領土を侵略されたオランダへ和平使節の1人として派遣されている(他にバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ、アーリントン伯ヘンリー・ベネット)〔『日和見主義者とは何か』P137 - P142、『イギリス革命史(上)』P150 - P152。〕。
1676年審査法に賛成したためチャールズ2世の怒りを買い枢密院から追放されたが、1679年ウィリアム・テンプルがチャールズ2世へ取り成したおかげで枢密院に復帰して伯爵に叙され、同年から1680年に提出された王位排除法案に一貫して反対、議会で懸命に否決を説いて法案を否決させたことからチャールズ2世に重用され、1682年に王璽尚書に任命され侯爵となった。排除法案に賛成のシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーと対立する一方、1679年から義弟のサンダーランド伯ロバート・スペンサーと共にオランダ総督ウィレム3世(後のウィリアム3世)に接触している。
1685年にチャールズ2世の後を継いだ弟のジェームズ2世により王璽尚書に代わり枢密院議長となったが、ジェームズ2世の審査法廃止の要求に反対したため職を追われた。しかし1687年非国教徒のジェームズ2世への協力を戒める『非国教徒への書簡』を匿名で公布、翌1688年になると『日和見主義者とは何か』を著して専制と政党政治の行き過ぎを批判、『代償措置の分析』でイングランド国教会に審査法廃止の代わりに特権の保障を約束したジェームズ2世の対策を欺瞞として非難した。一方、ウィレム3世擁立を進める一派には与せず合法的な解決を望んでいた〔『日和見主義者とは何か』P143 - P164、『イギリス革命史(上)』P238 - P239、P244 - P246、P262 - P264。〕。
1688年名誉革命によりウィレム3世が上陸するとジェームズ2世から交渉役として選ばれ、ゴドルフィン男爵シドニー・ゴドルフィン・ノッティンガム伯ダニエル・フィンチと共にウィレム3世の交渉を行い、ジェームズ2世が亡命するとロンドンの治安維持のためロチェスター伯ローレンス・ハイドが発足した緊急の貴族会議を主催し、ジェームズ2世の再度の亡命を促す使者の役割を務め、翌1689年に議会の上院議長としてウィリアム3世・メアリー2世夫妻に王冠を捧げた。直接名誉革命に関わらなかったが、同年に恩賞として王璽尚書に再任され政権に加わった。
しかし、ウィリアマイト戦争アイルランドへ上陸したジャコバイトに対して有効な対応を取らなかったことを議会に非難され、1690年に王璽尚書を辞任、1692年にウィリアム3世暗殺未遂容疑でロンドン塔へ投獄されていたマールバラ伯(後のマールバラ公ジョン・チャーチルの保釈保証人になったことでメアリー2世の不興を買い枢密院からも除名された。以後は上院で政治活動を続けたが、1695年に61歳で死去、息子のウィリアム・サヴィルが爵位を継いだ。
著作から主張する思想は国王の専制政治を非難する一方で、大衆が扇動されやすく暴走しやすい存在と取らえ変革も嫌い、貴族主導の国王抑制を重視して身分制を重んじる保守派だったが、革命後のイングランドが政党政治に歩みだし少しずつ変革に向かうと孤立していった。政党政治についていけず晩年は不遇だったが、1750年に遺稿が出版され、19世紀に歴史家トーマス・マコーリーが『イングランド史』でハリファックスを取り上げたのを機に伝記・著作集が発表され、革命期の重要人物として注目されるようになった〔『日和見主義者とは何か』P165 - P176、『イギリス革命史(下)』P79 - P84、P87 - P95、P105、P110、P137、P140 - P142、P165。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯)」の詳細全文を読む




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